Lに込められた想い。

友人とLGBTのことについて話していた。友人は言う。

「テレビを見ていると、オネエやゲイはよく取り上げられているけど、オニイ(オネエの対義語という意味でつかったのだと推測する)やビアンは出てこないよね。」

鋭い指摘だなと思った。そして、それを聞いて、私はGLBTのことをふと思い出した。

GLBTとLGBTの違い


LGBTという言葉がまだ存在しなかった時代、ゲイやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーの人々のコミュニティの名前を、新しく考えているときに、GLBTという名称にしようという提案があったらしい。つまり、ゲイがレズビアンの先に来るようにする。それに対して、LGBTという名称にとして、レズビアンがゲイの先に来るようにしたい、と異議を唱える人々がいた。そして、私たちも知るように、結果的には後者の提案が採用され、いま私たちはGLBTではなくLGBTという名称を使っている。

どうしてある人々は、レズビアンをゲイの先に持ってきたいと思ったのだろうか。GLBTとLGBTでは、何が違うのか。

私が思うに、GLBTの代わりにLGBTという名前を人々が提案した理由は、彼らがLGBTコミュニティの中の、男女格差やジェンダーギャップを乗り越えたい、そしてそのうえで団結してゆきたいと、強く願っていたからだと思う。

LGBTの中にも、ジェンダー格差が存在する。


LGBTコミュニティの中にも、男女格差は存在する。テレビを見ていると分かるように、ゲイや女装家やドラッグクィーン、あるいはMtFトランスジェンダーが、テレビに登場する機会は増え、一般的になりつつある。しかし一方で、レズビアンや男装家やFtMトランスジェンダーは、メディアにおいてスポットライトを浴びる機会があまりない。私が思うに、この違いは、LGBTコミュニティの中にも男女格差が大きく影響していると思う。もちろん、LGBTコミュニティの内部を男女と簡単に二分するのには無理がある。特にトランスジェンダーの場合はさらに問題が繊細かつ複雑だ。それを分かったうえであえて男女格差について言及するならば、例えばLGBTの中でも、ゲイのほうがレズビアンよりも社会的な発言力がある存在として扱われていたり、信頼性のある存在として扱われていることが多いような気がする。もちろん、ゲイやオネエがメディアに取り上げられる際に、ステレオタイプによって彼らの姿が曲解され、時には酷く笑いものに加工されていることは大きな問題だ。しかし、その一方で、テレビなどへのメディアの出演機会が増えることで、そういったステレオタイプを解消し、ゲイや女装家、あるいはドラッグクィーンの存在を広く知ってもらう機会が、女性のそれより多いのも、また事実だと思う。

レズビアンは、どこにいる?


この前YouTubeで、「オネエJAPAN」というタイトルをひっさげて、女装家やゲイやドラッククィーンのゲストが一堂に会するバラエティ番組を見た。


www.youtube.com


彼らの属性がところどころ曲解されていたり、誤解に基づいている部分はあったものの、ゲストが理想のタイプについて打ち明けたり、過去に付き合っていた恋人との話をしていたり、カミングアウトのことを赤裸々に話していたりしたのを見ていると、それは彼ら自身の姿そのもので、「あぁ彼らは長い時間をかけて、やっと市民権を獲得してきたんだなぁ」と思った。私はなにかそこに、大きな進歩を感じた。しかし同時に、これと同じことを、レズビアンができるだろうか、と考え、できないなと感じた。レズビアンや男装家、あるいはFtMトランスジェンダーなど、「女性」という箱に一度入った人々・入れられた人々は、まだメディアに登場することすら、ままならないような気がする。ましてや彼女たちの思いを語る場所は、まだまだ少ない。LGBTコミュニティ内の「男性」たちが結束し、確実にメディアにおける市民権を獲得してきている一方、「女性」たちの市民権は、まだ十分には獲得されていない。


だからこそ、LGBTである必要があったのかもしれない。「私たちはここにいる」という女性たちの声が、LGBTの1文字目に込められているのだと思う。


ブログに、具体的な本の内容を引用したわけではないが、GLBTとLGBTの違いに関する歴史的背景や知識は、確かこの本から得たと思う。