じぶんのことばを、解き放て。

私は授業中黙ってることが多いのですが、ちゃんと言葉が行き来する教室って、安心するなぁって思う。

教授が話を進めていて、学生に質問を投げかける。学生はきちんと文章の形ではきはきと応答する。それに対して、教授が曖昧な言い方だなと思ったことがあれば「いまのそれは、どういう意味?もう少し教えて」と質問する。そうすると、それを聞いて学生は、曖昧だった部分をさらにかみ砕き、分かりやすく説明する。教室の中のできるだけ多くの人が、分かったつもりで話を終わることのなく、理解しあって進めるようになっている。

 

 日本語能力が、低下しているのかもしれない。

 

 

若者の日本語能力の低下がメディアなどで頻繁に叫ばれていて、私も正直、それはあるかもなと思っている。言葉できちんと説明するという習慣が少し足りないと思う。よく「日本はハイコンテクストな文化だ」と言うけれど、それって危険も孕んでるよなぁ、って思う。

説明しないでも分かり合えるのはある意味すごいことだけど、もし解釈や伝わり方にずれがあったらどうするの?一度生じた溝を修正するのって、結構大変だよなぁ。それなら最初から、きちんとお互いに理解しあっておいたほうがいいよなぁ。
学問している学生の立場に自分がいるからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。学問に向き合っている以上は、ロジックという言語で信頼関係を築いていくのが何より大切だと思う。
ロジックを毛嫌いする人もいるのだろうけど、そこは私にとっては砦。
誰かと意見や考えを共有するための手綱。

 

話したくてしょうがなかった高校時代


それで、ふと自分の高校生活を思い出してみたのです。私は質問するのが凄く好きで、誰かれ構わずすぐ質問する。


思い出すのが、生物の授業。先生は学生を当てるんだけど、質問の仕方が悪いんだよね。

「これはなんですか?」

「維管束」

「そう、正解です」

という具合に、答えだけを言えばOKだという流れをつくっている。実質、学生に発言する権利はない。要求されたとおりの答えを言えばいい。でも、それは私にとっては居心地悪すぎて、嫌だったんだよね。話したかった。大きな声で、いろいろ対話したかったんです。私はその授業でも、分からないことや質問があればすぐ、授業を中断する勢いですごいたくさん聞いてみてた。先生ははきはきと答えてくれるんだけど、あまりにも粘りすぎると、嫌な顔をするんだよね。

「だって教科書にこうやって書いてあるでしょう」

「質問、授業の後にしてくれる?」

そうやって言われた時は、肩から力が抜けて、脱力してしまった。質問はいまはもうやめてくれ、ってそうやって聞こえたから。
でも先生が悪いわけでもないのは分かるんです。なぜなら、高校の授業の多くは、大学受験という試験のためにカリキュラムが設定されているから。そのために授業ごとに指導内容が決められており、定期試験も組まれている。だから、授業内の時間を超過すると困るのは先生だし、結局のところ学習が遅れるのも私たち自身だから、私たちも困ることになる。


でも、授業を受けているときって、そういうのどうでもよくなっちゃうんだよね。
おもしろいかどうかで、授業に臨みたくなる瞬間っていうのがあるんだよね。


そうやって私は先生を散々困らせ、嫌な顔をさせていた。
歴史の授業では、

「もしこの歴史がこう動いていたらどうなったの?」

と質問しては、

「歴史っていうのはもう終わったこと、過去のことだから。たらればは言ってもしょうがないんだよ。」

と冷たくあしらわれたりもした。たらればは言うな、と釘を刺されたのだ。

でも、歴史を学ぶ時間って、本当にそういう時間だったっけ?と私は思う。
たらればも、意外と面白いんじゃないの?と。

その考えは、大学生になった今のほうがつよくなっている。

 

言葉を取り戻したい。


私は私が経験した物事しか分からないけど、私が経験してきた感覚で言えば、日本の若者の日本語能力が低下するのはすごくうなずける。なぜなら、学校が「語ること」「自分の意見をはきはきと話すこと」「話し合うこと」「語り合うこと」を嫌っている傾向があるから。先生は、話してほしくないと思ってる。静かにしててほしいと思ってる。それを子どもたちは一瞬で見抜く。そして、教室というひとつの社会で生きていくためには、静かにして何も言わないことが一番なんだと学習していく。


それが、もったいない!!っておもう。
みんな、思ってることはたくさんあるわけで、それをきちんとことばで伝え合うのってすごく楽しいことでもあると思うんだ。それを封じ込めたりせずに、開放的に、なんでもかんでも話してみたい!


じゃあなんで授業中に黙ってるんだ、っていうと、それは話すことよりも、聞いているほうが楽しいから。でも、その時に話していないだけで、私はこういう場所で書くという行為を通じてめちゃくちゃ話している。相手も誰かは分からないけれど、まくしたてるようにしゃべってる。


別に、学校が話すことを強制させる必要はないとおもう。

でも、学校というのが、同年代の若い人たちが一同に集まる貴重な場所だからこそ、もっとみんなが「話したい!」「語りたい!」って思える場所になったらいいのになぁ、そういう場所を学校にしたいなぁっておもうんだ。胸がバクバクするね。そうやって、語るという手段を解き放って、自分の道具として使いこなし、楽しいものやすきなものについて語り合う未来の日本の子どもたちの眼差しを想像すると、私はもう心臓がどきどきしてしまって、学校をいますぐにでも、つくりたくなります。