「差別」の向こう側にあるもの

差別をしないために、何ができるかを考えたとき、言動や行動を注意するというのは半分合理的で半分的外れだと思う。一番手っ取り早いのは、差別を生み出している土壌であり、それを容認し続ける社会構造のしくみを学ぶことだ。それによって、差別をしないために何をするかではなくて、差別をするときに我々が何をしているのか、意識の有無に関わらず何に突き動かされているのかが明らかになる。
差別をしないための秘訣より、むしろ差別をするという行動原理のほうが、自分の中で明確に意識化される。

加えて、不思議で面白いなと自分で思うことは、私が本当に大切だと思う話をしているときに「差別」ということばは登場しないということだ。ネット界隈で「それは○○に対する差別ではないですか」と鋭く槍を投げる投稿をたまに見かけるが、それが的を得ている指摘だと感じたことは、不思議なことに一度もない。一度もないのだ。あるいは、差別ということばの使い方が粗雑で、しっくりこないだけかもしれないけれど。
「差別」ということばは簡単に人を切り刻み、切り分ける。なんとなく耳にしただけでピリッと緊張が走る言葉だ。
「差別」という言葉が生む誤解や真意について少し書こうかと思ったけど、あまりにも味わい深すぎるので今はまだ経験値が足りない。はぐれメタルを探しに行こう。