あたらしい学校をつくりたい。

日本の子どもたちが、「上手に取り繕う術」と「上手に嘘を付く術」を身に付けてしまっているような気がして、それを何よりも心配している、危惧している。自分たちが「本当に思ってること」はなんなのかにもっと耳を傾けてほしい。自分の声を信じてほしい。
私が中学生のときは、とにかく先生や先輩からの重圧に押しつぶされそうで、苦しかったのを覚えている。年齢差による格差が苦しかった。たった数年生まれた年が違うだけで、私と彼らの間には敬語が生まれ、力関係が生まれる。言いたいこともまともに言えない。それが本当に嫌だった。
今になって思うのは、年齢の違いなんて大した違いではないということ。年齢を重ねることで経験に色を重ねる、味わい深さを持った人々もたくさんいるけれど、彼らの魅力は年齢によるものがすべてではない。
何よりも、生意気であることを失ってはいけないと思う。先生だって先輩だって嘘をついたり、騙したり、間違えたり、失敗したりする。そういうときに、怖気づくことなく「それは違うんじゃないんですか」「間違ってると思いますよ」と言えることのほうが、何倍も何倍も大切なんじゃない...か。
嫌いな奴には嫌いだと言えばいい。
考えること、疑問を持つこと、また考えること。
そして、たいせつなのは、自分のことばを持つこと。
もうひとつ心配しているのは、子どもたちが「自分のことばを持てずにいること」だ。言語能力とも関係してくるのかもしれない。ことばで説明できることがすべてだとは思わない。表現できないこともたくさんあって、むしろそういうことのほうが多い。でも、説明できるだけの技術を持ち合わせたうえで、それを使わないという選択肢を選ぶほうが、強くなれると思う。まずは、技術を手に入れたほうがいい。
自分が何を考えているのか、きちんと論理的に説明できる力が必要だと思う。論理的であることとは、自分が何を言いたいのかを自分がまず理解したうえで、それを分かりやすくはっきりと相手に伝えるということだ。ことばを持たないと、相手に伝えることができないだけではなく、自分でも自分が何を言いたいのか分からなくなってしまうような気がする。そうすると、もうどこからも逃げられない。逃げるという手段さえ思い浮かばなくなってしまう。自分を守るために、自分を生かすために、これは必要なことなのだ。
私の感覚だけど、自分よりも年下の人たちと話をしていると、とにかく私を疑っていて、私に怯えていて、怖がっていると感じる。私は割と生意気な子どもだったので、そういう顔をしたくないと思って生活していたような気がする。あるいは、そういうところからは上手いこと逃げて、のうのうと生活していた。それでも苦しいなと思うことはあった。
そんなものもう要らないよ。社畜の練習してるんじゃないんだから。私たちは、地球の卵だよ、どこにだって行ける可能性を持っているんだ。それを全開にしよう。
生意気で暴れん坊の子どもたちはたくさんいて、それがそれで問題になることもある。でも、それ以上に、物静かでそれでいて屈折してしまっている閉鎖空間の中の子どもたちのほうが、私はずっとずっと心配なのだ。それは、目に見えない鳥かごだ。入らなくてもいい鳥かごなのだ。気付いたら入ってしまっている。
心の中で思ってること、傷付いていること、誰にも触れられたくないもの、そういうのに無理やり蓋をして、笑顔をつくる場所が学校なのだとしたら、そんなところは破壊したほうがいいと思う。思いっきり暴れて泣きわめいて、それでも帰るころには涙も乾いてきて、お腹が空いてくるような場所を学校と呼びたい。ほんとうにそう思うの。

変に委縮して縮こまるよりも、いっそのこと爆発してしまえばいい。人にもっと迷惑をかければいい。
恐ろしいほど繊細で傷付きやすくて、人一倍優しい子が多すぎる。それは素敵なことかもしれないが、自分を守ってくれるのは自分だけだ。たまには暴れたほうがいい。
私は子どものときに、身の回りのものをたくさん信じてきて、それが大切なものだと思えることもたくさんあるのだが、本当にそうなのだろうかと疑ったほうがいいものもたくさんあるとおもった。
特に、今のご時世、考えることを諦めてしまうと、ほかでもない自分が痛い目に遭ってしまう。