歪みと、違和感と、その先に見たいもの。

勉強をするなかで、私が生まれ育った日本という国は随分と変な国だなぁと思うことが多々ある。特に、ジェンダーにまつわる問題になると、なんだか胡散臭さが漂い始める国、ジャパン。「女性が輝く社会へ」と誰かが言ってたけど、言ってることとやってること、なんか矛盾してないか。
日本が世界的に有名なポルノ大国だと知ったのも、つい最近のことだ。海外ポルノサイトには、数多のジャンルの中に「ジャパン」というひとつのジャンルが確立されているらしい。それも最近になって知ったこと。知らなかったことが沢山ある。
「日本は変だって言うけど、どこの国だって変だよ。例えば、セクハラが多いとかいうけど、それだってどこ行ったって同じことだよ」友人にそんなことを言われたが、私はそれは同意できなかった。それぞれの地域に存在する言語や食べ物の違いなどと同じような語り口で、社会が抱えた爆弾や歪みを比べあってどうするのだ。セクハラが世界中に蔓延していることこそが問題なのであって、歪みを抱えた世界と比較して、それに比べりゃ日本の歪みは大したことないわ、と見なかったことに出来るわけがない。どちらもち...ゃんと見つめないといけないのだ。アメリカの某有名監督が性的暴力で俳優によって訴えられて、大きな話題になっていた。日本では伊藤詩織さんが、ジャーナリストからレイプという性暴力を受け、記者会見を行ったばかりだ。どちらも大きな問題なのだ。特に日本では前者ばかりが注目されているようだが、後者はメディアから取り残されているという禍根がある。そちらのほうが、私は恐ろしい感慨がある。なぜ誰も取り扱わない。なぜ、自国の問題をないがしろにするのだ。
大学図書館にクラブで寄贈したナショジオジェンダー
命特集。東南アジアの一部地域では、慣習として女児の性器を切除する地域が存在する。実際に手術台の上で、泣き叫びながら股を広げられる女の子の写真が掲載されていた。この写真のために、私はナショジオを寄贈したのかもしれない、と思わせるほどに、切実な一枚だった。その悲痛な表情が頭から離れない。「日本は性器を切る慣習なんてないんだから、そういう地域に比べたら、まだマシじゃん」と言われても、何にもスッキリしないのと同じだ。何を問題と捉え、何を慣習と捉えるのかはいつだって厄介で複雑で、難解で、微妙な線だが、私からするとそれは「問題」にしか見えなかった。お節介かもしれないけど、その女の子の悲痛な眼差しを見ていると、心が痛くなった。何を書くつもりだったのかすっかり忘れてしまった。書いていて痛くなってくることが多い。悲しいことや苦しいこと、辛いことばかりに目が行ってしまって、自然とそれらについて書き記すことが増えるからだ。すると「こんな文章を読んで誰が気分がいいのだろう」と思うし、すでに私は胸糞悪いし、お腹痛いし、ということになる。気にしすぎないほうがいいとは分かっているけど、気にしないわけにはいかない。問題はもうそこにあるからだ。
淡々と書けるようになりたいわけではない。気持ち悪いなと思うときは、ちゃんと身体が反応していたほうが健全だ。
人が書くものは、その人の人となりを映すようになると聞いたことがある。私はかなり暗いことや悲しいことや、多くの人が目をそむけたくなるようなことをあえて書くことがあるけれど、それでも最後は前向きに、優しく包み込むようにして文章を閉めようといつも決めている。筆のおき方まで暗いと、悲しくなるだけだ。悲しい感情を連鎖させたくない。現実にあるのものを拾い上げつつ、できればそこから、また動き出せるように。私が目指しているのは、もっと朗らかで、優しい世界だからだ。