髪の毛というアイデンティティ

どんな時も、必要なのはWhy?の考え方だ。
どうして茶色の髪の毛ではだめなのか。学校曰く、それは生徒心得に反するから。では、どうして生徒心得に反するのか。この生徒の場合は生まれつき茶髪とのことなので、染めているわけではない。いや、髪の毛を染めることがダメなのはなぜか?
「若いうちから髪の毛を染めるなんて、みっともない」そうかしら?
「他の生徒にとって良くない」染めたい学生は染めればよろしいのでは?
「髪の毛にとって染色は害がある」それは生徒本人と、あるいは両親が判断することで、学校が介入する必要はないのでは?...
「髪の毛の染色は非行の始まりだ」髪の毛の黒い非行生徒もいるでしょうし、そうとも限らないのでは?
「生徒心得に書いてある以上、例外は認められない」
うわ、最後の一番めんどくさい。自分でいろんな人が言いそうなことを書き連ねてみたところ、最後の最後に面倒くさいのにぶち当たってしまった。
「これはやっちゃだめなんです、何故ならやっちゃだめだから。そういうルールだから」という、論理をかいくぐったループ。ルールがある以上ダメなものはダメという、不毛な主張。
 
中学時代を振り返ると

私の中学校には中国からの生徒が一人いて、親の仕事の都合で来たから、日本にルーツがあるわけではない生徒だった。髪の毛が綺麗な茶色で、背が高くて、授業中にスマホをいじっては取り上げられ、たまに図書室で日本語学習のサポートを受けていた生徒だった。その当時、私がいちばん仲の良い友達だったと思う。
張さんというのだが、張さんもこの学校の生徒だったら、
自毛証明書の提出を義務付けられ、髪の毛を黒染めしろと言われていたのだろうか。
あるいは、私の場合はどうだろう。私は競泳を長くやっていたので、塩素に漬かった髪の毛は簡単に茶色に染まる。太陽に晒すと淡く茶色くなるのだ。同じく競泳をやっていた友人の一人は髪の毛の性質上、遠くから見ても明らかな茶色に染まりあがっていて、よく先生に問いただされていた。私の中学校は「自毛ですから」と強めに返すとそれで見逃してもらえた。見逃してもらうという風に考えること自体、なんか変な気もするけれど。
 
なぜ髪の毛の色にこだわるのか

蓮舫さんが二重国籍の「疑い」をかけられて、台湾籍の戸籍原本をメディアに公開していたことを思い出す。これも、いわばそういう行為に近いものを感じる。
髪の毛の場合は、特に、白黒はっきりさせる必要が本当にあるのだろうか。
あとは、日本は未だに二つの考えが尾を引いている。一つは、西洋基準のbeauty standard、もう一つは、みんなで我慢しあうという我慢比べだ。

西洋基準という点で言うなら、美の基準の頂点に立つのは真っ直ぐでさらさらの綺麗な色に染まったブロンドヘアだ。推測にすぎないが、染まった髪の毛の生徒を見て、あるいはもともと黒色ではない髪の毛の生徒を見て、眉をひそめる大人たちがいるのは、そういう髪の毛を見ると、「日本人の典型的な髪色と違う」「西洋人のような髪の毛をしている」ことに対する違和感を覚えるからなのではないかと思う。そして、そういう髪の毛に対する違和感を、疑いもなくそれはそのまま「正しくないことだ」と判断して、校則をつくり、子どもたちに従わせる。そういうことが、これまで繰り返し繰り返し行われてきたのではないだろうか。
 
もう一つは、一つ目にも関連する。美の基準に対して、子どもたちは小さいころから自然と憧れを持つように刷り込まれる。黒よりも、茶色の髪の毛のほうが美しく見える。そして、そういう髪の毛をした生徒はより高い基準にいると考え、その生徒たちを羨ましいと思う。そして、その生徒のように、自分も髪の毛を染めたいと思う。
染めたいなら染めればいいじゃない、と私は思うのだが、ここで出てくるのが「我慢比べ」だ。校則は私に髪を染めるなという。でもあの子の髪は茶色い。ずるい。自分もああいう髪の色が欲しいのに、あの子はもともと茶色だからって許されるなんて、理不尽だ。あの子も黒くすればいい。私も我慢してるんだから、ほかの生徒だってみんな我慢するべきだ。だから、茶色い髪の毛の学生は許さない。そういう考えになるのではないかと。

ここの二つをうまくほぐすことができたら、誰も自毛証明書を出す必要もなくなるし、わざわざほかの多くの学生のような黒い髪の毛に染める必要もなくなる。髪の毛を染めるということが、個人が持つ個人の身体に対する自由として、もっと認められるようになるだろう。髪の毛を染めて学校に行くということに対する空気の悪さは、何となく想像ができる。でも、生まれつきパーマの人もいれば、直毛の人も、編みこみの人も、茶色の人もブロンドの人も、色んな人がいるはずだ。そういう人たちみんなが同じ空間にいることは、変なことでもおかしなことでもない。