無知からはじめよう。

無知は罪ではないと思う。

学問を深めていくということは、たくさんの本を読むことでもあり、色々な人の意見を吸収することでもある。そうすると、たくさん物事を知るようになる。たくさん物事を知るようになると、物事は一概には言えないのだということが少しずつ分かってくる。そして、一概には言えないけれど、「一概には言えない」ということを言い訳にしてしまうと、苦しいことや悲しいこと、打破したい現実ですら、超えられなくなってしまったり、迂回しにくくなってしまう。それは自分にとってよくない。だから、一概には言えないということを重々承知したうえで、物事を言う決意を固めるようになる。それによって、自分が何を考えているのかを伝えられるようになる。自分の意見が完璧でないのは当たり前だ。足りない部分もたくさんある。そして、それは誰かに教えてもらわない限り自分では分からない。だから、教えてもらうためにも自分の意見を主張するのだ。それによって、自分自身が磨き上げられていく。

学問を深めている人を、研究者や学者、先生などと呼ぶことが多い。また、その学問に日々接していて、かつ強い関心がある人達も、その中に含まれるだろう。

学問を深めると物事をよく知るようになる。そして、私たちは物事を知らなかったときの自分を忘れがちになる。

そして、物事を知らない人たちのことを理解できなくなり、時には見下したり、馬鹿にすることもある。

「無知は罪だ」は、「物事を知らないことは悪いことだ」とも、翻訳できるかもしれない。

でも、私は、そうは思わない。

だれだって、スタートは無知だったはずだ。どうして、昔の自分を罪だと責められるのだろうか?

無知は罪ではない。無知であるということを隠したり、取り繕って、物事を知ったかぶりする人こそが罪なのだ。

分からないことを分からないと言える、自分もなかなかできないことが多い。

分からないのは自分のせいだと思ってしまう。勉強不足だ、と。

でも、そんな風に自分を責めるくらいなら、誰かに質問すればいい、その場でググればいい。Youtubeを漁ればいい。情報の価値を見定める余裕がなくてもいい、とにかく誰かに助けを求めたい。

分からないことは分からないと言えたほうがいい。それでいくら馬鹿にされたって、知ったかぶりしているほうがよっぽどかっこ悪いのだから。

なんでそんなことも知らないの?と言われても、知らないものは知らないのだから、しょうがない。もちろん、知らなかったことを気取る必要はないけれど、責める必要も全くない。しょうがないじゃない、知らなかったんだもの。そこからスタートしていきましょう。

無知は罪じゃない。知らないということを罪と呼ぶのは変だ。

それを責めても、何も始まらない。一緒に、もっと知っていこう。

一緒に進んでいこう。