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特権と人種とジェンダーと。

「特権を獲得している人は、往々にしてその事実に無自覚である。」
その具体例を紹介するときに、よくジェンダーと人種を同程度のファクターとして引き合いに出すんだけど、本当にこれらを対等な引き合いとして説明していいのだろうか、という疑問がいつも浮かび、そして自分でもよくわからない。
たとえば、アカデミー賞を例に出すと、これまで主演男優/女優賞を受賞してきた人たちのほとんどが白人だ。彼らからしたら、「自分たちの実力で、この賞を受賞できた」と、思う人も多いだろう。
たとえば、私がその場にいたとする。私はアジア人。彼らは白人。そこには、決定的な人種の違いが存在する。私は思う。「私が受賞を逃したのは、私が白人ではなかったからなのか...?」
私が抱いたこの一抹の不安を否定することなど、誰にもできない。だって、それが事実なのかどうか、誰にもわからないから。ただ単に、私の演技がへたくそだったのかもしれない。でも、もしかしたら、「アジア人」であるという理由だけで、私はアカデミー賞を逃したのかもしれない。
それは、わからない。
でも、残酷にも統計は語るのだ、受賞者の多くは白人である、と。
たとえば、就職試験に臨んだとして、ある女性が残念ながら不採用だったとする。彼女はがっくりと肩を落とす。すると、友人から連絡が入った。「同期のなんとかくん、内定もらったって」
彼女は、ふと考えてしまったとする。「私が女性だったから、内定もらえなかったのだろうか」。
彼女に対して「いやいや、単に企業と相性が合わなかっただけだって」「単純に、なんとかくんの人柄が買われただけだって」と声をかけることは簡単だ。でも、彼女の心に浮かんでしまった「自分が女性だからダメだったのかな」という不安感を、それらの言葉は拭えない。
ジェンダーと人種を、私はよく同程度の引き合いとして語る。もちろん、それらは互いに絡み付いているから、ぱっくり切り離して語ることはできない。
でも、あまりにも何か似ているところがありすぎて、私は議論をするときにそれらに頼ってしまう。その事実に、われながら違和感を覚えるのだ。ほんとうに、それらを一様にテーブルに乗せて、議論を進めてしまっていいのだろうか、と。