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精神疾患という病理化迷路

考える 祈る

朝起きられない、人とうまくコミュニケーションがとれない、ご飯が食べられない、物事に集中できない。
そういういろんな「できない」という事象に対して、病名を付ける動きが物凄く進んでいることに対して、一抹の違和感を覚えることがある。
たとえば、精神疾患名をまとめた、とあるホームページ。Googleから精神疾患と検索して適当に見つけたもの。
「猜疑心と敏感性が非常に強い。従って他人に対する不信論争好き頑固自負心が強いのが特徴。」
これが、分裂質人格障害の中の妄想性人格障害とカテゴライズされている。
もうひとつ。
「職場のストレス等に依って、会社に行けなくなる症状。実際に出社時刻になると眩暈、吐き気、緊張感、下痢等が出る。最近は新人だけでは無く「リストラ」や「IT不適応」でベテランにも多い。」
これは「出社拒否症候群」。
さっきから大事なことを書いているせいか、体の震えが止まらない、けど、書く。
どうしてそんな、漢字だらけの病名・精神障害名に、私たちは囲まれているのだろうか?自分の心や体の不和を訴えるのに、どうして病名が必要なのだろうか。
もちろん、現実には病名や疾患名には大きな権威付けが働いている。
「なんだか気持ち悪くて、会社に行きたくありません」と口頭で伝えるよりも、病院に行って「出社拒否症候群」という病名を診断書なりで見せたほうが、きっと説得力が生まれるのだろうという現実も、わかるような気はする。

でも、人にはいろいろできないこと、苦手なこと、不得手なことがあるのだから、そういう漢字ゴリゴリに頼らなくても、堂々と「私はこれができません。」と主張できる社会のほうが、居心地がいいのではないだろうか、と思ってしまうのである。

病名があれば、他人だけではなく自分も安心できる側面もある、のかもしれない。客観的に「あなたの気のせいではないですよ、これは病気なんですよ」と言ってもらえることの安心感もあるだろう。
でも、その安心感って、なんだか脆い気がしてしまうのだ。否定するつもりはないんだけど、「そうか、苦しいんだね、そんなこともあるよね、今日はゆっくりなさいな」、そういう言葉が日常的に飛び交うようになれば、病気にすがる必要も減るのではないだろうか、と思ったりして。