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男女平等という言葉を使わない理由

男女平等っていう言葉を、私はあんまり使いません。使いたくありません。

毎度のことではありますが、話を脱線しながらその理由を一生懸命書きます。

 

①平等という言葉の意味がわからない

残念ながら、すべての差別は社会的構造にこそあるのだろうと思う。これはおそらく、性差だけに限った話ではないと思うけれど。

”Personal is political”という言葉があります。「個人的なことは、政治的なことである」。

個人のみに還元される問題などない。

世の中にはいろいろな人がいる。

社会的構造の欺瞞に気が付いて、自分の行動を省みることができる人。

気が付きながらも、見て見ぬふりをする人。

気が付かずとも、善意や良心、あるいは生まれ持った環境などから、行動を省みなくとも実践できる人。

気が付かないがために、自分の行動を省みること機会すら与えられない人。

いろんな人がいることでしょう。

社会的構造の罠や欺瞞に対して、自分という人間がどう向き合っていけるのかどうか、という話。

そのときに、平等という言葉ほど厄介なものはない。

男性と女性が平等になる。それって、どういうことか。

男性と女性が、同等に扱われる。同じ社会的立場を持つようになる。そんなことが平等を指し示すのであるならば、この先に見える未来は、実は暗いのではないかと思う。

男性と女性の間に存在する性差という差異は、個人差ではなく、社会が生み出した歪みだ。そして、それを少しずつほぐすようにして矯正してやらないと、性差や、それに付随する差別偏見はなくならない。

 

②男女平等を客観的に語ることは出来ないから

少し強引な言い方をするならば、男女平等を客観的に語れる人なんていないんじゃないだろうか、と思う。

客観的な語り口はない、あるのは、自分という窓口からのぞいた、自分としての主観的な語り口だけ。そういう主観的な語り口が集まることで、語れることもある。

男女平等を客観的に語れないのは何故か。

それは、みんな男か女だから、ではない。それは、誰しもを男か女に選別する社会に、私たちが生きているから。あなたは男、あなたは女、そんな風に振り分けて満足する社会に、私たちは生きている。だからこそ、私たちはその事実から逃れられない。

目を背けることは出来るかもしれないけれど、やはり逃れることはできない。

男女平等。

スローガンとしては、なんか良さげに聞こえるけど、やはり慎重に取り扱わないといけない言葉だと思うんだ。

話はずれるけど、女性研究・女性学について語ると、嫌な顔をする男性がいるんだな。

女性のことばかり言うけど、男性だって抑圧されてるし、それって逆差別だろ、と言わんばかりに。

そうなのだ。そこなのだ。待ってくれ、私はあなたと同じ方向を向いているのだ。

そんなに男性として言いたいことがあるなら、あなたは男性研究をすればいい。男性学をやって、自分の思いを吐けばいいのだ。自分の立場から、自分の言いたいことを言えばいい。女性研究と男性研究は、対にはならないし、敵対もしていない。むしろ、眼中に収めているものは、同じなのだ、と私は思う。

どうして女性と男性が敵にならないといけないのだろう。おかしいな。いつも思う。

男女平等を客観的に語れるなんて嘘だ。誰だって、自分の視座からしか物事を語れない。だから、客観性を見せ付ける人は胡散臭い。だって、嘘だから。

 自分の立場から、自分の思いを語ることに、何も気負うことなどない。

誰もがそうやって語ればいいのではないだろうか。

そして、見事に話がずれてゆく。