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sexismを再輸入する

sexismを性差別と翻訳する日本語。

それが、どうも腑に落ちない。

 

jamsponts.hatenablog.com

外来語を日本語に翻訳したのは、明治時代の若き学者たちだった。彼らの多くは男だったと推測する。

男たちは、ある言葉を日本語に翻訳することでそれらの概念を流入し、ある言葉は流入しなかった。

sexismは、おそらくその「リスト」から漏れていた。意図的に、翻訳しなかったのかもしれない。それはわからない。

とにかく、sexismはいつの日からか性差別と翻訳されるようになった。

しかし、sexismは性差別ではない。

そんなことどうでもいいじゃん、と思う人もいるだろう。

日本であろうがどの国であろうが、sexismは存在する。それに嫌悪感を覚える人々がいる。それに苦しむ人々がいる。言葉に表現できなくても、感覚として、それはどこにでも存在しえる。

性差別というのは、sexismの一部でしかない。すべてではない。

sexismとは、性に関するあらゆる事象に関して、表面的な情報や印象だけから、相手を判断できるとおもう驕りのことだ。

差別という言葉は非常に複雑で、言葉自体が、差別する立場と差別される立場を二分するようにできている。どんな場合においても、「お前は差別してるんだ」と言われると、指摘された人間は、基本的に顔を赤くして怒る。「何を言ってるんだ、そんなわけないだろう」と。差別されていると声を上げたはずの人間は、声をあげる時点で勇気が必要だったはずなのに、そこから更に窮屈な立場に追い込まれる。

セクハラだってそうだ。セクハラです、と声をあげなければいけないこと、それ自体がもう既に苦しいのだ。言わないと伝わらないのだから。

もちろん、どんなこともはっきり言わないと相手には伝わらない。

それはコミュニケーションの根幹である。

でも、ここで私が言いたいことは、うまく言えないが、そういうことじゃない。

 

性差別という言葉を使うことで、差別する立場と差別される立場の間の溝が、どんどん深くなっていく。罪深い。

だから、性差別という言葉を使う人間は、嫌われてしまう。多くの場合、嫌われてきたのは女性だ。本当はすごく言いたいことがあるはずなのに、「相手の立場も考えなよ」という正論をかざされて、何も言えなくなってしまう。差別構造は維持されたまま、差別される立場の人間の立場が更に窮屈になるというトリック。

だから、性差別という言葉が嫌いだ。そんな単純な話ではない。

誰もがsexismの当事者であり、sexismに対してなんらかの立場をもっている。気づいているかいないかの違いだと思う。

sexismがセクシズム、とカタカナで呼ばれている限り、この言葉は日本には浸透しない。ジェンダーだって、セクハラだって、レズビアンだって、ある程度そう。カタカナ言葉は結局、日本には浸透しづらい。

どうやって翻訳すればいいのだろう。この貴重な概念を、再輸入しなければいけないのではないか、と考えることがある。

やるとするなら、それは私がやるべきことだ。