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考える、考えない、考える

ジェンダーフェミニズム、売買春、LGBT、アダルトビデオ、慰安婦、女性アイドル...。こういったいろんなことを書いていると、「考えすぎじゃないの?」「もっと単純に考えればいいんじゃないの?」と言われることがある。確かに、そうかもしれない。考えすぎなのかもしれない。でも、「考えすぎ」って決めたのはいったい誰なのだろうか?

誰も客観的にはなれない

教科書や書店に並ぶ本には、言葉や文章が並んでいる。学生の間は、教科書に書いてあることを正確に記憶することが求められることも多い。一見、文章化された言葉や文章や文字は、疑いようもなく、正しいように見える。

客観的という言葉がある。客観的とは何か。私情を介さずに物事を見つめること。

でも私情を介さない、なんてことが、果たして人間にできるのだろうか?誰しもが感情を持ち、経験を踏まえ、感性を持っている。怒りを感じれば文章は荒々しくなるし、もはや話題にも出したくないようなことは、言葉にすらしない。

客観的になろうと努めることはできるかもしれない。でも、客観的に「なる」ということは、誰にもできないと思う。

それは、どんなメディアや媒体にも言えることである。例えば新聞。朝日、読売、毎日...。それぞれの新聞を見てみると、取り上げるニューストピックが違う。ニュースの伝え方も違う。見出しの書き方も違う。では、新聞社のどれかひとつが正しくて、どれかが間違いである、ということなのか?

いや、それもたぶん違う。

結論は、みんな、なんとなく正しくて、なんとなく間違っている。

それぞれの新聞社がコネを持つ人間関係や事情のことは伏せていたり、書き方を曖昧にしていたりする。逆に、それぞれの新聞社が嫌っているものに対しては、極端にバッシングしたりする。誰だって感情的だ。隠そうとしたって、感情的だ。

感情的なことが悪いことだとは思わない。

むしろ、「客観的であれ」と唱え続けてきたのは男権主義的な考えともいえる。

学術論文がそうであるように、「私情を挟まず、ある論調やフォーマットに従って記述された文章のほうが学術的価値がある」と決めたのは男たちだった。

自分の未来を自分で決める方法

でも、客観的であることの重要性もたくさんある。例えば、自分の将来について自分の価値観できちんと判断したいと願うなら、できるだけ様々なものの見方を知っていたほうが良い。

例えば、日本の中等・高等教育は、同性愛について子どもに教えないことによって、同性愛をこの世に存在しないものとして扱う。そして、男と女によって築き上げられる「家族」こそが社会の最小単位であり、何よりも尊いものだと唱える。それはそれだ。そういう考えもある。でも、それがすべてではない。それに惑わされる必要もない。

考えない人々は、考えることから自由にはならない。考えることから逃げているわけでもないけれど、結局のところ、世間の声にただ従っていることに等しい。

「考えすぎじゃないの?」と言われても、「じゃあ、あなたが考えていないことって、例えばどんなことなのさ」と思うだけだ。考える必要のないことって、どんなことなんだ?

今日の晩御飯何にしようか。明日はどんな洋服をきていこうか。そういうことなら、別に時間かけて考えなくてもいいかもしれない。そして、多くの人も、真剣には考えていないことかもしれない。

では、こんなことはどうだろう。

AVは性欲を満たすためには必要な商品だ。女性アイドルは可愛い職業だ。

日本は男女平等な国家だ。

言い方が難しくなったかな。私が普段、耳にする「意見」たち。こういうような、誰もが当たり前だと思っていることを、本当に当たり前と捉えてしまっていいのだろうか、という自問自答の繰り返し。

当たり前って、結局、発言力の強い誰かさんの「個人的な意見」に過ぎなかったりするんではないだろうか。発言力の強い誰かさんとは、政府であったり、経団連であったり、いろいろかな。権力、カネ、地位であったり、を、持っている人かもしれない。

なぜだろうか、考えている人のほうが、窮屈な人生を送っているように見えるらしい。

考えることは、視野を狭くすることなのだろうか?

考えていないということは、「誰かに考えることを任せて、自分は判断をせずに物事をただ受け入れる」ということに過ぎないのではないだろうか。だとしたら、考えないことこそ、窮屈なことなのではないだろうか?

こんなことを考えている私は、「考えすぎ?」