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拡大レンズで世界を覗く

学ぶ 考える

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見るとは何か。見られるとは何か。

リーディングを読みながら考えさせられます。今日レクチャーで学習したことは以下のとおり。

・ReceptionからAddressへ

教授が授業を通して伝えたいメッセージを発信する。それをAddressとする。そのとき、教授のメッセージを学生が個人の経験や感覚、信念や主義主張に応じて異なる解釈で受け止める。それがReceptionだと言える。

教授が伝えたいことは、学生に同じように伝わっているとは限らない。そもそも、予習したかどうかで話の飲み込み具合も大きく変化する。リーディングをしないで授業に参加すると、そもそも教授の話を聞くという体制自体が整わない。そして、リーディングしないと、教授の言っていることが分からないときに質問を投げることすら出来なくなってしまう。だから、リーディングはきちんと行ったほうが絶対お得なのだ。(話がずれてる)

たとえば、映画を見るときも同じ。観客によって感想や感じ方が違うのは当たり前。もし感じ方が同じなのだとしたら、そこには何か強力なイデオロギーが意図的に働いていると思う。例えばプロパガンダ映画。日本は世界一強くて善良な国であり、日本と戦う国々は卑劣で低俗な国である。そのメッセージは観客全員に一様に伝えられる。それが映画の使命だからだ。メッセージが一様に伝わることこそ怖いこともない。

話はずれるが、近々「海賊と呼ばれた男」という映画が公開する。先日映画館で予告編を観たが、恐ろしく感動的に作り込まれていて驚いた。何か意図があるのか?

「永遠のゼロ」を観たときもエンドロールに防衛省の名前が入ってて、どういうことなんだとずいぶん混乱した。この映画もどんな意味合いが込められているのだろう。そして、「海賊と呼ばれた男」も「永遠のゼロ」同様大ヒットするのだろうか。

・Spectatorship

映画の観客はSpectatorだ。見せられたものを受け取る。受け取るだけではなく、自分もその見せられたものの一部を体現しようとする。例えば、トトロを観たこどもが、自分がさつきやめいになったつもりでトトロを探しに森に遊びに行くとする。こどもは第三者ではなく、自分自身こそが映画の世界にいるのだ、と本気で信じて遊びに出て行く。こどもだけではない。誰でもそう。映画やテレビの世界、もしくは小説の世界を自分自身の世界だと疑わない。そういうことがおきうる。

・Phychoanalysis

Phycoは要するに頭の中。これはちょっとまだうまく説明できない。

・Lacan and the Mirror Phase

ジャック・ラカンと鏡の世界。なんか小説のタイトルになりそうだ。笑

鏡の中に自分自身を発見する。こどもの場合は、自分を発見することはできても、肉体的に幼すぎるために、その自分をコントロールすることはできない。

教授と色々話したのだが、自分でも頭の中を整理することができていない。

目の前に鏡がある。鏡の正面に自分が立つと、自分自身の姿が鏡に映る。驚いて慌てて鏡から逃げる。また鏡の前に立つと、やはり自分はそこに立っている。自分の表情、汗、唇から滲む血、ニキビ、目の動き方、洋服についたしみ。そういうものが全て見える。それらはすべて自分の姿だ。試しに手をかざしてみると、鏡の中の自分も同じように手をかざす。足を広げると、鏡の中の自分も足を広げる。自分と同じ行動をする。なぜなら、鏡の中に映っている自分は自分自身だからだ。

鏡とは、物理的な鏡でなくても同じ理論が適用される。

映画。小説。テレビ。猫。水溜り。人間。

それらに写っているもの。写らないもの。そこから何が見えてくるのか。

うん、やっぱりわからない!笑

でも、まわりにあるものは必ずしも現実を切り取ったものではない。

どうしてハリウッド映画の主役はたいてい白人なの?どうして学校の先生はたいてい男性なの?どうして黒人はいつも映画の中で嫌われ者なの?

では、自分はどこにいるの?教授はこの自分がどこにいるのかわからない状況をAlienationという言葉を使って説明していた。そこからどうなっていくのか。

うむ、わからない。