読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

妥協しないということ。

お金を支援していただいて、あるプログラムに参加することになった。

およそ10日間。長いのか、短いのか。おそらく、あまりにも短い。

プログラムに合格したときは、きちんと準備をして、実りのある機会にしようと思っていたのに、結局たいして勉強も準備もしていない。書籍を数点図書館から借りて、読んでは見たものの、なんか違うと思って返却した。映画は、授業の一環で偶然観たものが役に立った。

自分に求める理想像が、ものすごく高いのだ。できる限り専門家のように、あるいはそれに匹敵するくらいすらすらと知識が出てくる状態を理想にしてしまう。英語力も、今よりもずっとレベルが高い自分を想像してしまう。それは、いいことだと思う、もちろん。理想は高いほうがいい。しかし、それに近づけない自分がいるのも事実なのだ。理想には到底たどり着けないとわかったときに、どうするのかが問題なのだ。諦めるのか。別の道を探すのか。それとも?

 

お金を支援してもらうという責任感は重いほうがいい。自分のお金や、両親のお金で行くのとは訳が違う。選考結果によってこの人には投資する価値があると判断してもらったということだからだ。それに値する人間だろうと思ってもらえたということだからだ。

留学生と仲良くなるとか、現地の学生と遊びに行くとか、ホテル暮らしを楽しむとか、授業が早く終わればいいとあくびをするとか、ご飯食べに行くのが楽しみだとか、朝ゆっくり起きようとか、写真を撮って思い出に浸るとか、人脈を増やすとか、まあいろいろあるのはわかる。

でも、そんなことをするために、お金を支援してもらったのではないはずだ。

学ばなければいけないことがある。そしてそれを元に社会に還元しないといけないことがある。社会を変えていくため、あるいはこれ以上悪い方向に変えないために、個人単位でできる事を模索していく。人事では終わらせてはいけないことがある。

人は簡単には変わったりしない。昨日の自分の延長線上に自分がいるだけだ。明日の自分も、今日の自分の延長線上にいる。しかし、何かを変えたいと望むのも自分だ。

朝早くおきて、毎日のように新聞に目を通すこと。大々的に取り上げられているトピックに対して、自然と視線を寄せたい。それは、まるで昨日読みかけて終わっていた小説の続きをまた読みだすかのように、すぅっと視線がそこに寄せられていく感覚。大きな地図としてニュースが頭に入っていくこと。日本列島の中で、あちこちに起こっていることが同時多発的に動き出すということ。それを自分で組み立てられるということ。

プログラムの自分。どんな自分でいてほしいか。どんな自分でありたいか。

嘘はつかない。わからない言葉、わからない話、すべて素直に聞ける自分がいてほしい。嘘をつかない。苦しいときに笑う必要はない。それでも、限りある機会にできるだけ沢山の人と交流し、その人の話に耳を傾けたい。その人の生き方を知るということ。

そして、お金を無駄にしない。時間も無駄にしない。

自分のやっていること、ひとつひとつに意味を見出したい。授業で聞いていること。留学生が放った一言。友人が話したその言葉。外で見た光景、歴史、その重み。

値踏みをするやつは馬鹿だ。大学のレポートもそう。なんにおいてもそう。

これくらいやっておけば、相手が満足するだろうという、値踏み。漫才だって、コメディー映画だって、雑談だって、レポートだって、なんだってそうだ。相手に対する尊敬の気持ちがないのだ。自分が満足するところまでやってみないと、意味がない。

自分の最大限満足するところまでやってこそ、何かが動く。

自分を満足させることは難しい。でも、自分を満足させないと、意味がない。