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「普遍的」。

考える 斬る 祈る

女性/男性研究、ジェンダークィアスタディーズに表面上関係ないテーマについて話してると、「あー手間が省けてるなぁ」と思ってる瞬間がある。楽だわ、と。
でも、それって、見てないふりしてるだけで、本当は楽なのではない。手間は省けてなどいない。自由でもない。
こういうことを書くと腹立つ人もいるのだろうけど、普遍的といわれているものは、実はものすごく男権的であったり、偏っていたりする。

中学時代の日本歴史の教科書。各項目ごとに太字で用語が強調されていたり、説明文が付してあったりする、”普通の”文部科学省認定済教科書。その中のコラムには、こういうものがあった。
「えた・ひにんという身分」「女性たちの暮らし」「在日外国人の生活」
なんで、こういう人たちは、本分には掲載されずに、わざわざコラムとして特別編集されているのだろうか?
だって、彼らだって確かな日本歴史の担い手であって、特別扱いする必要も、別枠対応する必要もなくないか?
そのときは、別段おかしいとは思わなくて、そのまま通り過ぎていったけれど、いま思えば、私が使ってきたのは日本歴史の教科書ではなかったんだな、ということがわかるような気がする。
それは、”一般日本男性史”とでも呼べる歴史のかけらで、普遍的という名の下で、一部の人たちが勝手にカテゴリーした一部の歴史を学んでいるに過ぎないのだなぁと。

「あー手間が省けてるなぁ」と思うのは、時として「うまいこと見ないフリできてるなぁ」ってことだ。
だから、そこに安心してしまう自分は確かにいるんだけれど、本当にそれに安心しきってもいいのか?という疑問は残るのだ。
普遍的、という言葉や、普遍的と思われている概念こそ、扱い要注意。